この8月、人の話を聞いたりSNSを眺めたりしていて、
妙に気になることがあった。

なんだか、みんなケチくさい。
お金の話ではない。
心がケチくさい。
言葉の端々から、それが臭ってくる。

「こちらがこれだけしたんだから、相手もこれくらい返すべき」
「そこまでしてあげる義理はない」
「なんで私がそこまで気を遣わなきゃいけないの?」

親切や思いやりの話になると、
まず「損をしていないか」を考える。

もちろん、本当に利用されている人に
「もっと我慢しろ」と言いたいわけではない。
自分を守ることも必要だ。
ただ、何でもかんでも「利用される」「損をする」という視点で
見るようになると、少し話が違ってくる。

しかも、そういう人は自分がケチであるだけではない。

身近な人が誰かに親切にしていると、
「そこまでする必要ないって」
「そんなことしても、相手は返してくれないよ」
と、親切にすることまで止めようとする。

まるで他人にも「ケチであれ」と勧めているようなものだ。

私は、そこにちょっとうんざりする。
そもそもサービス精神や親切心なんて、
日常のちょっとしたことなら、たいていは¥0 だ。

一言多く声をかける。
困っている人に手を貸す。
相手が喜びそうなことをほんの少し余計にしてあげる。
笑顔で接する。

そんなことをするのに財布からお金を出す必要はない。
もちろん、時間や労力を使うことはある。
でも、それを全部「損」と考えていたら、
人間関係なんてずいぶん味気ないものになる。

そして、心がケチくさい人ほど、
自分の人間関係があまりホットではないことに気づいていないように思う。

恋愛がうまくいかない。
結婚生活がうまくいかない。
友達との関係も、どこか薄い。

それなのに、
「いい人がいない」
「人間関係って難しい」
「結局、人は自分勝手だ」
などと言っている。

でも、それは相手だけの問題なのだろうか。

だって、何かするたびに「これだけした」と帳簿をつけられ、
こちらの好意まで「等価交換で」と考える人と、
私なら親しくなりたいとは思わない。
恋愛だってしたくない。
友達としても付き合いたくない。

人間関係は、そんなにきっちりした等価交換ではないからだ。

私は誰かに親切にする。
でも、その人から何も返ってこないこともある。
それでいい。

別の日に、まったく別の誰かが私を助けてくれることもある。
私が誰かにした親切が、巡り巡って別の誰かに渡っていくこともある。
そういう、ぐちゃぐちゃで非効率な循環が、
人間関係の温かさなのではないかと思う。

返してもらうのではなく、回していく。

そもそも、人間社会というのは、
そういう不思議な仕組みで成り立っている部分がある。

親から子へ。
友人から友人へ。
見知らぬ人から見知らぬ人へ。

誰から始まって、誰に返ってきたのかなんて、いちいち分からない。
それでも、どこかで誰かが誰かに親切にする。
それがまた別の誰かへ渡っていく。

ものすごく非効率だけれど、私はこの非効率さが嫌いではない。
むしろ、人間関係には、このくらいの無駄があっていいと思う。

「自分がこれだけしたんだから、相手もこれだけ返すべき」

そんなふうに帳尻を合わせなくてもいい。
返ってこなくてもいい。
そのとき自分が「してあげたい」と思ったから、してあげた。
それだけでもいい。

そして、親切を受けた側も、必ずしもその人に返す必要はない。
いつか別の誰かに、何かを返せばいい。
そうやって回っていけばいい。

人間関係を豊かにするのは、効率のいい貸し借りではないのかもしれない。
少しくらい無駄で、少しくらい一方通行で、誰から誰へ渡ったのかも分からない。
そんな親切や思いやりの積み重ねが、人と人との間を温かくしている。

だから私は思う。
心までケチくさくならなくてもいいんじゃないか。
何にも損しない親切まで出し惜しみする必要はない。
そして、自分が誰かにしてあげたことをいちいち回収しなくてもいい。

人間関係は、貸し借りの帳簿ではない。
もっと、ぐちゃぐちゃでいい。
そのほうがたぶん人間は温かい。

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